大切な事はたいてい幼いころに学んできた -心がけはほんの些細なことからです-

 

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1983年生まれ、片田舎の町でごくごく普通の生活を過ごしてきた男。 幼少期から色恋沙汰に恵まれ、良くも悪くも恋愛にのめり込んできた人生だが、32歳で離婚を経験、その後の失恋続きで自分の生き方や人生を大きく見つめ直す事になる。 「人生しくじったダメ男が恋愛と自分磨きを通じて成長していく」ことを立証するため、また悩める人へ力を届けたいとの思いからこのサイトを開設。 第二の人生を模索しながら日々ブログを更新している中年若輩者。

大人になると、だんだんと礼儀や行儀に対して煩雑になってくるもの。

子供の頃に親から教わってきたことがなんだかバカバカしくなり、心がすさんでいるのが分かります。

 

様々な経験を通して、酸いも甘いも知り得てくるのが人生です。

ただ、一人の人間として、社会に生きる存在として大切な事は実はそんなに複雑ではないんです。

今の時代はとにかく情報が多すぎて、選択肢も多すぎて、疲れる要素が満載です。

これだけ豊かで便利な世界になったのに、僕たちの精神の成長が追い付いていないのでどこかしら不幸の悩みが心に渦巻いてるんですよね。

こんな感じになってないですか?

〇現実的なことしか考えられない

〇勝つことや負けることが生き方になる

〇生活を守ることにいっぱいになる

〇謙虚な気持ちが薄れていく

〇ものごとを損得で考えてしまっている

〇どこかで不平不満が募っている

 

恵まれている環境は長く続くとそれが”あたりまえ”になります。

住むところ、食べるもの、ネット環境、治安、インフラ……

 

これだけそろっていても、自分の心がけがなっていないとそのありがたみを実感することはできません。

今回は、傲慢になりかけている日々の考え方に、少しだけ昔の考え方を取り入れてみてはいかがでしょうか。

 

履き物をそろえる

「脚下照顧」という仏教の言葉があります。

堅苦しい言い方はせずに意味だけ訳すと、「心が乱れたら足元を見てみる」ということです。

小さい頃、親に履き物をそろえなさいと教えられませんでしたか?

学校から帰ってきたら、友達の家に行ったら、脱いだ履き物をそろえることが行儀だと。

 

この「履き物をそろえる」という行為には自分の心を整えてくれる作用があります。

というより、履き物をそろえるという行儀を行うことで自分の乱れた心も整えようということ。

 

親御さんから何気なく教わってきた行儀の良い作法ですが、周りから見ても印象は良いですよね?

行儀のよさは周りに伝搬し、多くの人の信頼につながります。

 

ただ、大人になるにつれてこういった事、意外に忘れてしまうものです。

目の前の利益や幸せに振り回されて足元が見えなくなってしまうものです。

 

足元に目がいかないのは心が乱れている証拠。

普段の喧騒に惑わされていると思ったら、毎日脱ぐくつに目をやってみてください。

 

履き物をそろえた時に、なんだか自分の心がしっくりくるのが少し実感できると思います。

ふと落ち着いて自分を見た時に「あぁなんだか忙しない毎日で大切な事忘れてしまってるかも」と気づけるはずです。

 

米粒一つ残さず食べる

ここで昔話を展開するつもりはありませんが、戦時中は米一粒ですら貴重な時代だったと聞きます。

 

僕は亡くなったおばあちゃんからよくこの話を聞かされました。

当時はお米すら食べられない事も多く、芋の煮っころがしたおかゆみたいな食べ物がごちそうだったとの事。お米なんかもってのほかで、一粒たりとももったいなくて残せなかったらしいです。

 

今では考えられないですよね?

「もったいない」という精神がどれほど大切か、また普段いかにこの”もったいない”という感覚を忘れてしまっているのか、一度しっかり考えてみて下さい。

今この時代にこれだけ溢れている食べ物をいつでもどこでも便利に食べることが出来るというありがたみをしっかりと心で感じて下さい。

 

人間関係でも人生でも、「あたりまえ」という感覚になったら人間堕落します。

お米一粒でも、お漬物一切れでも、残さず食べるという行為に人としての真価が分かります。

逆に、あなたが今付き合っている人、友達や彼氏彼女の食事のマナーをよく観察してみましょう。

人の性格はほんの小さな行動に現れます。

平気で食べ物を残す人、お腹がいっぱいになって食べきれないわけではないのに、”美味しくない”と言って捨てる人、そんな人と今後付き合っていて、痛い目を見るのはあなた自身です。

また自分もそういう所がないか、見つめ直してみましょう。

 

人は見るとこ見ています。

だからそういった小さなことがとても大事なんですね。

自分を内観してみて、日ごろありふれているありがたさに気づいてください。

 

頂きます・ご馳走様を言う

こんな話を聞いたことがあります。

とあるレストランで、親子連れのお客が食事を食べ終わった時の事。

子供が手を合わせて「いただきました」と言おうとしたら、その隣にいた母親が「○○ちゃん、ここはお金を払って食事してあげているところなんだから、いただきましたなんて言わなくていいの!」と言い放ったそうです。

これ、実話です。

 

僕はこの話を聞いたときに世も末かと思いました。

これがモノが有り余っている時代の負の遺産でしょうか。

 

本来、ご馳走というのは、その名の通り”食材を集めるために走り回っている人”がいて、”料理を作るのに精いっぱいになってくれている人”がいて、またその料理を盛りつけたり並べたり、用意してくれる人がいることからついたものです。

つまり、一度の料理にたくさんの人が走り回って(昔は馬を走らせて)食卓に出てくるものです。

 

いくらお金を払っていようが、その食事を用意をしてくれる人がいなければありつけるものではありません。

これは家庭であっても同じことですよね。

 

食べられる事、美味しいと感じられることに感謝を感じられなければどうして自分に幸せを感じられましょう?

往々にして「今私は不幸だ!」と嘆いている人ほどなんの気兼ねもなく1日3食の食事をとっているものです。

 

「いただきます」「ごちそう様でした」は自分が生きていくために様々な命をもらっている事への感謝の言葉です

僕が小さい頃、こういった事はしっかりと教育されていましたが、今はどうでしょうか?

あなたはちゃんと言えていますか?

人として大切にしなければならない事、そういうのって小さなキレイごとからなんです。

 

ゴミを拾う

都会に行けばよく目の当たりにするであろう、フェンスに刺さった空き缶の大群。

あれ、一番初めは心無い人の一刺しなんです。

 

人間て面白いもので、「みんなやっていることは自分も大丈夫だろう」と思うものです。

だから、誰か一人が空き缶を捨てると、そこを中心に2個3個と空き缶が積まれていく。

やがてそこがあたかも”ゴミ捨て場”の如くゴミだらけの場所と化します。

 

たった1本の空き缶が、収拾のつかないポイ捨て問題と発展していくんです。

 

「たった一回くらい」

「みんなやっている」

 

このセリフはおそらく誰でも吐いたことがあるでしょう。

僕だってガキの頃はよくこういう言葉で言い訳してました。

 

でも大人になった今、何か後ろめたい事があった時、こういう言葉が脳裏に浮かんだ時に自分が恥ずかしくなります。

「小学生で教わる事じゃん」

 

そんな当たり前の道徳もどこかしら風の如く消えてしまっている現代が少し寂しいなと……

 

だから僕は今でも「気づいたゴミを拾う」習慣を身につける様にしています。

これまでポイ捨てをしてこなかったなんて言えませんし、適当な言い訳言いつくろって正当化してきたことだってある。だから捨ててきた以上に拾う事を意識付けています。

※どれだけ拾えば良いんだ⁉ってくらい、拾い出すと落ちてるゴミ気になりますよ(笑)

 

偽善者と言われようが、詭弁だと思われようが、やはり人として大切な事は大切です。

それにこんな事、複雑な人間関係の感情なんて関係ないし、お金も一銭もかからないし、自分が損をすることなんて1ミリもないから(笑)

 

ポイ捨てしたことある人だって、コンビニに家庭ごみ大量に持ち込んだことがある人だって、道ばたに落ちているゴミを拾うことはできます。

こんなの小学校時代にやったボランティア活動より簡単ですよ。

恥ずかしがらず、ちっぽけな大人のプライドなんか捨てて、ゴミ拾いましょ。

空き缶捨てるのも最初の一人からなら、拾うのもまた最初の一人からです。

少なくとも僕はその一人でいられる様に毎日拾ってます。

 

頑張っている目立たない人を労う

これは僕も大人になってから学んだことですが、まったく関係ない人を労うという事も些細な事で大事な事なんだなと気づきました。

思えば小さい頃は通学路ですれ違うおじいちゃんおばあちゃんに元気よく「こんにちは!」って言ってましたね(笑)

 

それが大人になるにつれてなんとなく恥じらいが出てきて、声が出なくなってしまって……

クールに振舞って、大人びた雰囲気を出すのがカッコいいと思ってしまってるんですね。

 

「おはようございます」 「こんにちは」 「おつとめご苦労様です」 「いつもありがとうございます」

 

こんな簡単なセリフなのに、中々言えませんよね。

なんででしょうか?

 

多分、それって「周りの人がやってないから」だと思うんです。自分だけ声かけてたら変な目で見られそうとか、反応してもらえなかったら周りに笑われそうで恥ずかしいなとか、そういうつまらない事気にしてるんですよね。

 

そんな事より、自分が声をかけて喜んでもらった時の嬉しさを考えた方がなんかイイじゃないですか。

だって、別に見返り求めてやるわけじゃないし、ちょっとしたことで関係ない人にも感謝を伝えられるって素晴らしい事だと思いますよ?

 

特にボランティア団体の方だったり、公共施設の掃除とかしてくれている人ね。

たまに高速のパーキングエリアのトイレで掃除しているおばちゃん見かけるので、話しかけれる限り「いつも掃除してくれてありがとうございます」って言うようにしてます。

近くにいるおじさんは「なんだこいつ?」って顔しながら見ていきますけど(笑)

 

ただね、そうやって声かけるとホントみんなうれしそーに「ありがとうね、気を付けていってらっしゃい!」って返事くれるんですよ。

それが嬉しくなって、今では毎回声かけてます。

 

多分こういう事、子供の頃は恥ずかし気もなくできていたはず。

すれ違った人に笑顔であいさつ出来る事、ふと見かけた額に汗して働いている人を労える言葉が出せる事。

簡単な様で、意外に難しいのかも分かりません。

 

だからちょびっと勇気持って言ってみると、なんだか気分がスッキリしますよ!

 

まとめ

ちょっとタイトルが大げさかもしれませんが、多くの人が分かっていながら出来ない事です。

大人になってくると、子供の頃出来ていたことが段々と出来なくなってくるもの……

大切な事なのに忘れてしまうんですね。

前向きだったり、感謝の言葉だったりに億劫になってしまうんです。

 

だからこそ、幼いころに学んできたことが人として一番大切な心の持ち方ではないでしょうか?

 

そして幸いこれらは今すぐできることです。

自分の事にいっぱいいっぱいで心に余裕がなくなっている時、少し気持ちを落ち着けて周りの人のことを見まわしてみるクセをつけてみてください。

傲慢な感情やプライドが邪魔した時、子供の時に教わったことを思い出してみてください。

 

たいてい、大切な考え方や振る舞いって、小さい時にすでに知っているものですよ。

 

最後まで読んでいただいてありがとうございます。

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